第2話『親の顔が見てみたい』


 秋と言うには少し寒くなって来た。その大学の木々からは少しの範囲を掃くだけで山になるくらいたくさんの落ち葉が地面を覆っている。
 一陣の風が通り過ぎ、また数えきれないくらいの落ち葉が枝から舞うように落ちた。
 そんな落ち葉の雨の中、この話の主人公である森水陽太、文学部一回生間もなく十九歳、は困った顔をして立ち尽くしていた。

 その視線の先には一台の乳母車があり、その中では生後四、五ヶ月と思われる赤ん坊が静かに寝息を立てている。

「住之江、これは何だと思う?」

 陽太は彼の後方に同じく立ち尽くしているセンスのいい丸眼鏡に、長く伸ばした髪を後ろで束ねている男に問いかけた。
 その男・住之江健三郎、法学部一回生十九歳は答えた。

「どっからどー見…むぐっ」

「待て」と、陽太は住之江の口を塞いでその答えを遮る。そして続けた。「どこからどう見ても分かるような答えはいらない。見解を聞かせてくれと言ってるんだ」

 ようやく口を放してもらえた住之江は渋い顔をして言った。

「そんなん俺に聞かれても……」
「仮説でいいぞ。ただし、空から降って来たとか、石から生まれて来たとか、ウソ臭く且つ在り来たりな話はいらん。どうせ作るなら奇抜なやつを頼む」
「じゃ、未来から将来邪魔になる奴を消しに送られて来たサイボーグ。もしくは宇宙船に置いてかれた宇宙人」
「却下、〇点。盗作は犯罪だぞ」

 ちなみにただいまの住之江の発言の出典は「ターミ○ーター」と「E・○」だ。

「そんなんどーでもええやん。ところでコレ、どないすんの?」
「警察に届けるに決まってる」

 すぐに返ってきた陽太の答えを聞いて住之江はこの愚か者をお許し下さい、と神でも仰ぐかのように大袈裟に空を仰ぎ片手で顔を覆う。

「……何か言いたそうだな」
「ケーサツに届けるて、そんな当たり前のコトしてもしゃーないやないかい。つまらん」と、住之江は掃き捨てるように片手を振る。
「じゃ、どうしろと?」
「俺らで親探す」
「何故そうなるんだ?」
「ええか、最近の人間共は自堕落になり過ぎとる! 特に公務員! 退屈そうにしながらもいざ仕事が入ると面倒臭そうに手ェ抜きよる!」
「……それは一部だけの話じゃないのか?」と、陽太はフォローするように言ったが、住之江はなおも続けた。

「甘い、甘いで陽太! そんなこっちゃアメリカのチョコレートケーキよりも甘ァなってまうで!」
「……」
「仮に陽太の説が正しいとしてもやな、その自堕落な一部にこの赤ん坊が当たってみィ。この子の先八十年はあろうと言う人生ぶちこわしやで!
 施設に送られ親のいぬまま寂しい子供時代を送り、そこから生まれた歪んだ心が彼もしくは彼女をグレさせた……。そこからその人生は辿るはずだった幸せな人生から大きく大きく遠のいて行くんや!
 ……陽太、お前はこの可愛ええ赤ん坊の笑顔を見てもそんな人生を歩ませたいんかい!」

 びしいぃっ、と効果音をつけたいくらいの勢いで乳母車の赤ん坊を指差す。

「……笑ってないぞ」

 陽太の言う通り、赤ん坊は笑ってはいなかった。眠っているわけでも泣いているわけでもない。無表情だ。

「う〜ん、けったいな赤ん坊やなぁ」と、住之江は眉を歪めながら赤ん坊の目の前で手をひらひらさせる。
 それでも赤ん坊は無反応だった。

「ま、お前の言う事も一理ある。住之江、ここで一つ間を取って警察に届ける事はしないでおこう」
「でも間を取るって事は自分達で探す事もせえへんて事やろ? そしたらどうすんの?」
 もっともな住之江の疑問に陽太は真面目な顔をして答えた。
「忘れ物、落とし物は厚生課だろ」


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「困るよ、君達」と、厚生課の係員、谷沢は言った。
「……ですよねぇ」と、陽太も苦笑する。
(まさか、ホンマに赤ん坊を厚生課に持ってくるとは……)と、後ろで見ている住之江は半分呆れた顔をしている。
 陽太は非常に真面目な人間であるが、時々冗談のようなことを本気で実行に移す突発的な行動力がある。

 谷沢は陽太が押してきた乳母車で眠るでもなく泣くでもなく、ただ座っている赤ん坊と陽太を見比べ、ため息をつきながら言った。

「大体ね、若さの勢いに任せてデキてしまった子に対してそれは無責任極まりない」
「……え?」
「手に余るからといって構内で拾ったことにしてウチに持ってくるのはあまりにも卑怯ではないかね!?」
「……えぇっ!?」

 どうも、谷沢はとんでもない誤解をしているようだ。

「ちょ、ちょっとそれは誤解です! その子は俺の子じゃありませんって!」と、陽太は慌てて釈明しようと試みるが、もう思い込み、確信してしまっている谷沢には通じない。

「ええいっ、この期に及んでまだしらをきるつもりか!?」

 まるで時代劇の裁判官である。その内ガバッと上着を脱いで背中の桜吹雪でも見せられそうな勢いだ。

「どの期にも及んでませんっ! 恋人もいません! 悲しい事実ですが!」
「ならば恋人でもない女性に無理矢理迫ったと言うことかね!?」
「何でそうなるんですかっ!?」

 更に罪状が追加されたところで住之江が後ろから羽交い締めにした。

「こ、こらっ! 住之江!」
「このままやったら終いに連続婦女暴行魔にされてまうで。一旦退散や!」

 そうして住之江は陽太と乳母車を引きずって建物を出て行った。


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「……とんでもないことになってしまった」

 陽太は構内にあるベンチでがっくりうなだれながら言った。

「こーなったら本物の親見付けて汚名を晴らすしかあらへんな〜」

 住之江の言葉に陽太はガバッと顔を挙げる。

「そうだ! そもそもコイツの親のお陰で婦女暴行魔にされかけたんだからな、意地でも親を見つけだして“ガツン”と一言言ってやる!」

 怒り心頭に怒鳴る陽太の手には直訳すると「上司」という意味になる某缶コーヒーが握られている。

「で、どうやって?」
「問題はそこだな。手がかりはこの赤ん坊一人だ。これだけで親を特定するのはちょっと難しいぞ」

 住之江は乳母車でやはり無表情のまま人形のように座っている赤ん坊を見つめる。

「……大体三、四ヵ月ってところやな。このへんで四ヵ月以内に出生届を出している人を探せばええんちゃう?」
「その出生届を出している人をどうやって調べるんだよ。役所に聞くにしても、今度は『誘拐を企ててる』とか言われかねないぞ」
「陽太、さっきの事よほどこたえたんやなぁ」

 やや哀れみの混じった目で陽太を見る住之江を置いて、陽太は更に話を続ける。

「それに近所と決まったわけでもないだろう。むしろわが子を捨てる時は近所をさけるもんじゃないのか?」
「う〜ん、やっぱり絞り込むのは無理やな。新しい証拠でも見つられればええんやけど」

 その住之江の言葉を受けて、陽太がすっくとベンチから立ち上がった。

「よし、そうと決まったら現場検証だ」

 五分後、二人は現場に来ていた。
 陽太は現場につくと乳母車をその真ん中のほうに押して行き、向きを変えてピタリと止めた。

「ん、こんなもんだな」
「現場の再現完了やな」

 二人で頷き合うと、改めて現場を見渡した。現場は陽太と住之江が所属しているサークル『KWC』の部室にある地下室の入り口付近だ。
 そこは三つある校舎の一つの裏庭で、日が当たらないので陰気な雰囲気は否めないが、ちょっと集まって何かをやるにはぴったりな広さだ。

「普通に考えると犯人は今俺達の通ってきた道を通ってここにやってきたんだよな」
「普通に考えたらな。でもあそこの窓からって可能性もあるで」と、住之江はこの裏庭に面した教室の窓を指差した。
「いや、その可能性はないぞ。あの窓は開かないし、乳母車ももってるんだぞ」
「あ、そうか、ということは……」
「……そういうことだな」

 この大学の構造は複雑でこの裏庭に来るにはかなり面倒な道のりを辿らねばならない。
 しかもこの裏庭の存在に気付いている学生すらほとんどいないのだ。

「迷い込んだ、なんて事もないよな」
「じゃ犯人はここまで迷わず来られる人間てことやな」

 ここで二人ははたと気がついた。
 普段ここを通る可能性がある人間はKWCのメンバーしかいない。

「……一応聞いてみる?」
「少なくとも協力を仰げるかもしれんしな」

 二人は共に裏庭の隅にある階段を降りて行く。
 下り階段の先には暗くて短い廊下があり、両側の壁に二つずつ扉があった。
 しかし二人はそれらの扉には目もくれず真直ぐ突き当たりのロッカーに向かって歩いて行く。
 ロッカーは観音開きの大きなもので、通常名前を入れるところには『KWC』と書かれた札がはめられていた。
 先頭に立っていた陽太はそれを開け放つと躊躇せずにロッカーの中に踏み込んだ。
 乳母車を押している住之江もそれに続く。

「こんにちは〜」

 ロッカーの向こうに広がっていたのは狭いロッカーの空間だけではない。本来ロッカーの背中にある鉄板が外され、その向こうに小さな部屋が広がっていた。
 その部屋の真ん中置かれている会議机にむかって一組の男女が椅子に座っていた。

「滑るのは同じだろ!?」と、女性の方、吉岡が言った。

 彼女は長身でモデルでも通用しそうな体格をしている。明るく色を抜いた髪はショートカットにしており、快活そうな感じが伺える。

「でも先に発明されたんだよ?」

 言い返した男、坂本も長身で、さらさらの髪を品よくまとめている、なんだか繊細そうなイメージのある男だった。
 陽太は取り敢えず彼らの注意を促そうと声をかけてみる。

「あの〜」
「何言ってんだい、大体あんな左右で離れた板なんて滑りにくくてしょうがない」
「もしもし?」
「だからこそテクニックがいるんじゃないか」
「……聞いてます?」

 三度目でやっと彼らは気がついて陽太達を振り向いた。

「あ、陽太じゃん、いつ来たの?」

 今まで全く気がつかなかったらしい。
 吉岡の質問に、呆れた様子で陽太は答えた。

「今です。ところで何を話してたんですか?」
「いや、冬合宿でスキー場行くだろ? あたしがスノボやるって言ったら、このバカがスノボは邪道だって言い出したんだよ」

 吉岡が説明をすると、坂本が再び食らい付いてきた。

「スキーやってる時、斜面に腰掛けてるスノボーの人達が僕の華麗な直滑降の邪魔なんだよ」
「それはスノボをやっている人間のモラルの問題であってスノボ自体が悪いわけじゃないじゃない」
「いいや、スノボ自体の座りやすい構造がそうさせてるんだよ」
「そもそも直滑降で滑ってるやつの方が周りにとっちゃ迷惑だねっ」

 また始まってしまった言い合いに、陽太は大きなため息をついた。
 KWCは「こだわり道倶楽部」の略だ。それぞれのこだわりをもってそのこだわり道を主張、追求するのが主な活動である。

「それより!」と、陽太は少し声高に言って不毛な論争を止め、赤ん坊を指差した。「ちょっとこの子供を見て欲しいんですけど」

 吉岡はしばらく赤ん坊を見つめ、言った。

「ウチじゃ飼えないよ。ちゃんと世話をするって言っても結局あたしが世話をすることになるんだから」
「捨て犬を拾って来た子供の母親かいっ!?」と、住之江が反射的に突っ込んだ。

「この子どうしたの?」
「上の裏庭に乳母車ごと放置されてたんですよ。裏庭に来る人って少ないじゃないですか。だから吉岡さん達が何か知ってるんじゃないかと思って」

 陽太の説明を聞いて、吉岡はかぶりをふって答えた。

「さあ、あたしには何も分からないね」
「そうですか……」と、陽太は少々がっかりしたように言った。状況的にここにいる誰かが知っている可能性が高いと期待していたからだ。

「でもどうして自分で探そうとしてるのさ。厚生課とか警察とかに届けたら?」

 その坂本の質問を陽太の肩をさらに落とさせた。

「……何か僕悪いこと言った?」
「いや、実はですな……」一部始終を見ていた住之江が苦笑しながら吉岡と坂本に今までのあらましを説明した。「……ちゅうワケですわ」

「あっはははは。陽太、あんたあたしらの中ではまともな方だと思ってたけど、周りで起こってることが可笑しいんだねぇ」

 事情を聞いた吉岡は他人の不幸は蜜の味とばかりに大笑いした。

「……笑い事じゃないです」

 坂本も声には出さないものの、やはり顔に笑みを浮かべている。その笑顔はぴくぴくと引き攣らせ、今にも笑い出しそうだ。

「これも縁かもしれない、正式に養子にとって育てたら?」
「何言ってるんですかっ!?」

 陽太の抗議の声も空しく、この話に吉岡が食い付いてきた。

「いーね、いーね。血の繋がらないワケあり父子ってのもさ〜。大きくなるにつれて子供が母のいないことに疑問を持ち始めたりしてさ〜」

「『何でボクにはお母さんがいないの?』」
 住之江が声色と身ぶり入りで台詞を挟む。

 すると、坂本も声を少し低くして答えた。
「『父さんだけじゃ、不満なのか?』」

 二人の援護に気を良くした吉岡はドラマのナレーションよろしく語りはじめる。

「そして優太(仮名)は気付いてしまう、自分は父とも血の繋がっていないことに。本当の両親を探す為に家出する優太……」

「『父さんの嘘つきっ!』」
「『優太っ、待ちなさい!』」
 住之江が坂本に背を向け、坂本は住之江の肩に手を伸ばした。
 しかしその手は空をきり、もはや『優太』と化した住之江がさっと一歩離れる。

「そして優太はその小さな冒険の中でいろいろな出会いを果たし、父の愛情に気付く」

「『……親子じゃなくても親子以上の絆があるんだ! 帰ろう、僕の父さんの所に!』」
 住之江はぐっと拳を握りしめ坂本の方に向き直る。

「本当の両親は見付からずじまいだったが、かくして陽太と優太の絆は深まったのであった」

「『とうさ〜ん!』」
「『優太〜!』」

 ひしっ。

 見つめあった坂本と住之江がスローモーションで駆け寄り、お互いを抱き締めた。
 吉岡はしばらく酔いしれたように口をつぐみ、間をおいてから陽太に尋ねた。

「……どう?」
「どう? って……何なんですか、その昼ドラプチ劇場は!? しかも勝手に人を意識した仮名を赤ん坊に付けてるし!」

 今まで唖然とそれを見ていた陽太は気がついたように捲し立てた。

「ま、要するに少しはワケありな人生である方が人格形勢に役立つってことだね」
「分かりやすい話、陽太が引き取るのが一番この赤ん坊の為に……」

 どうでもいいが、まだ二人は抱き合った姿勢のままだ。

「なるわけないだろ。俺に扶養家族を育てる経済的余裕はない。貧乏人生まっしぐらだ」
「しかし貧乏に打ち勝って大成する話もよくあるからねぇ」

 その吉岡の話を受けた坂本と住之江がプチ劇場パート2を始める。

「『すまん、父さんの経済的能力が足らないばかりにいつもお前に負担をかけて……』」
「『父さんのせいじゃない、社会のせいなんだ! 螢の光、窓の雪で勉強しまくってやる! そんでもって奨学金をふんだくって大学行って金に汚い高級官僚になってやる!』」
「『ごほっ……ごほっ……頑張れ、優太(仮名)父さんはいつもお前を応援……しているぞ』」

 そして坂本はガクっと机に顔を伏せた。
 住之江は青ざめた顔をして坂本を揺り起こそうとするがやがてその上に覆い被さって叫んだ。

「『父さーーーーんっ!』」

「……そのシナリオの場合、貧乏に悩まされた挙げ句に死ぬのか、俺は」と、陽太は顔をしかめて呻くように言った。「しかしその場合だとこの子の為にはなっても俺の為にはならない」
「ケチくさいこと言わないでよ、陽太君」と、陽太の言葉に坂本が口を尖らせる。それに住之江が同意した。
「せやで、人生の一ヶや二ヶ。減るもんじゃあるまいし」
「確かに減るもんじゃないな。一つで無くなっちゃうからねぇ」と、吉岡がしみじみと言う。

「いい加減に冗談は止めましょう」と、陽太はほとんど懇願するように言った。
「でもこの子から親を特定するのは難しいんじゃないの?」
「もし見当がつけられても『こんな子知りません』って言われる可能性もあるしね」

 吉岡と坂本が揃って否定的な意見を口にする。
 それを聞いた住之江が嬉しそうに言った。

「やっぱり陽太が育てるしかないな」
「意地でも俺は育てない」

 陽太がきっぱりと言い放ったところで吉岡が言った。

「しかし見当をつけるにしても手がかりはこの子一人だろ、どうする気だい?」
「赤ん坊に聞いても答える訳ないですし……まてよ?」と、陽太は赤ん坊の顔を覗き込んだ。

「何か見付かったん?」
「いや、一応誰かの血を継いだ子供であることは確かなんだから、顔立ちとか似てるところがあるかもしれないと思ってな」
「でも例え瓜二つでも親の顔知らんかったら意味ないんちゃう?」

 住之江の疑問には坂本が答えた。
「いや、この子の成長した姿を想像できればそれにそっくりな人を捜せるかもしれないよ」
「言えてるね。……どれどれ?」と、坂本の意見に吉岡が頷いて同意すると陽太の隣に屈んで赤ん坊の顔をじっくり観察する。

「……髪型はちょっと予想できないね。目はちょっと細めだし切れ長になるかも。目鼻筋は整ってるし将来はハンサムになるかもしれない」
 続いて吉岡の隣に坂本がしゃがんできた。
「耳はちょっと福耳かな。眉はきりっとしてるね、将来剃っちゃう可能性もあるけど」
 そこに更に住之江も加わる。
「しっかし、普通ここまで大人に囲まれたら怖ァて泣くもんやろに。きっと親父も無表情であんまし感情が表に出えへんのとちゃう?」

 それぞれの意見を聞きながら自分の知っている人間の顔を照らし合わせていた陽太はふと、妙な感覚に捕われた。

 目は切れ長、ハンサム、ちょっと福耳。無表情で感情が表にでない。

 容姿についてはあまり気にならなかったが、住之江の述べた人格の面で、同じような描写ができる人間を自分は知っているような気がする。
 思い出すのには数瞬を要した。

「ま、まさか……」
 陽太は机に駆け寄ると、いらなさそうな紙を持ってきてマジックで何かの図を書き始めた。
 大きな丸が二つにそれを貫く直線が一本。その直線の端は両方下に向かって曲がっている。そう、それはまるでメガネを開いたような図だった。
 陽太はそれを書き終えると図の中を全て黒く塗りつぶす。
 それが終わるとハサミを使って器用に紙から切り取り、直線の部分を折り曲げた。

 それを見た住之江が声を漏らす。
「……サングラス?」

 陽太は黙ってそれを赤ん坊のところに持って行き、それを赤ん坊に掛けさせた。そして少し生えている髪を後ろに撫で付ける。
 その赤ん坊を見て一同は衝撃を受けた。

「ま、まさか……武松さん!?」

 その名に応えるように皆の注目を受ける乳母車の背後からぬっと一人の男が現れた。

「呼んだかね?」
「「「「う、うわぁぁっっ!?」」」」
 あまりに突然な登場に全員が全員、驚嘆の声をあげた。

 このように不意且つ唐突に現れる、オールバックにサングラスの黒ずくめの男。その名を武松と言い、KWCの部長という地位にいる人間である。

「幽霊が出たわけじゃあるまいし、それほど驚かなくてもいいのではないかな?」
「幽霊の方がマシだったかもしれないですよ」と、陽太は正直に言った。

「ところでブショーはん、ホンマにこの子供、アンタのなんですか?」
「その通り、優太は私の子だよ」と、武松はあっさりと認めた。どうやら名は本当に優太だったらしい。

「子持ちなんて全然知らなかったわよ」と、言ったのは吉岡である。

 二回生の場合、一年近く武松と付き合っていたことになるのだ。それなのにそんな重要なことを知らなかったのだからその反応は自然と言える。
「ふむ、それは話していなかったのだから仕方が無いな」

「じゃ、何で自分の子供をあんなところに放置していたんです?」そのお陰で自分はエラい目にあってしまった、という言葉はどうにか飲み込んで陽太は尋ねた。

「少し離れた時に森水君達がやってきてね。しばらく様子を見ていたが実に面白くてね。さっさと名乗り出るのはあまりにも惜しかった。だから、満足行くまで親探しを楽しんでもらおうかと思ったのだよ」

 一瞬、沈黙が場を包む。

「……それはつまりずっと俺等を見とったっちゅうワケですか?」
 住之江の問いに武松は頷いた。
「その通りだ。人間の行動と言うものはすべからく見ていて面白い」

「あなたの楽しみと引き換えに僕らが困っているということは分かっていますか?」
 今度は陽太だ。

 しかし武松は今回の質問には頷かなかった。
「……困っていたのかね?」
「そうです、とても困っていました」

 幾分強い口調で陽太は答えた。

「私にはどう見ても楽しそうにしか見えなかったが?」
「……そのサングラス、ひょっとして度入りですか?」つまり眼の良さを疑っているのだ。
「いや素通しだよ、ちなみに視力は三・〇、文明人にしてはいい眼だろう?」
「……どこで調べたんですか?」

 普通、視力検査では二・〇までしか計らない。
 もう責める気力を無くした陽太は大きく深いため息をついて言った。

「とにかく後で厚生課の谷沢さんにこの赤ん坊が俺の子じゃないことを証明しておいて下さい。ずっと見てたなら理由は分かりますよね?」
「了解した。明日までにやっておこう」

 話がまとまったところで、陽太は一度住之江と吉岡、坂本と視線を合わせ頷きあった。そしてもう一度武松の方に向き直って言った。

「武松さん、もう一つどうしても知りたいことがあります」
「私の下の名前かね?」
「うっ……、それも捨て難いですが、あなたはこの子の父親ですよね?」
「そう言ったはずだが?」
「父親と子、核家族を形成するのにどうしてももう一人必要な人間がいます」
「随分遠回しに言うのだな、もっと簡潔に言いたまえ」

 武松がそう言うと陽太は一度深呼吸をして心の準備をして、尋ねた。

「母親、つまりあなたの妻は誰ですか!?」


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「まさかいつも呼んでる名前が下の名前だったなんて……」

 坂本は顔だけ上げて机に伏せて言った。
 その視線の先では日本的な黒髪を腰まで真直ぐ伸ばし、一挙一動がとても丁寧な、一言で言うと大和撫子な女性が赤ん坊を腕に抱いて離乳食を与えている。名を武松和泉と言い、KWCの二年生部員である。

「まー、大方予想通りだったけどねー……」

 坂本の隣でけだるそうに言ったのは吉岡だ。

「あったりめェだろ。あんな偏屈野郎に付き合える女なんて和泉以外いるかよ」
 先ほど部室に現れたばかりで武松夫婦以外では唯一全ての事情を知っていた三年の江戸っ子(でも生まれは群馬)の波瀬が言った。

「そもそも学生で結婚してるなんて思わないですよ」と、言ったのは陽太だ。
「でも、ブショーはん等どうやって生活費とかかせいでんねろ?」と、住之江の疑問は非常に関西人らしいものだ。


「……やっぱ株とかじゃないか? あの人ならどんな鍋底景気でも儲けられそうだ」
「ありそー……」と、陽太の予想に吉岡がうなずいて同意する。

「それよりさー」と、まだ気の抜けた声で坂本が言った。「やっぱり僕には想像できないよ」
「何がだ?」と、波瀬が眉を潜めて尋ねる。
「武松さんが人並みに求婚したり、夫婦生活営んだりするところなんて」
「……全くだ」

(その2・親の顔が見てみたい 完)

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